秋雄の場合 その2

 すべてのしがらみを断ち切って、今自分はここにいる。喫茶店のコーヒーは薫り高く、窓から内海の静かな波を見下ろしながら、秋雄は再び命がみなぎってくるような気分だった。
 そうだ、案じることはない。 自分一人食べるくらいなら、日雇いでもアルバイトでもしよう。これからは財産も肩書きも何もない自分自身の人生を生きよう。まさにこれこそ「自分で生きる」ということではないかとすら思えてきた。
 秋雄は喫茶店のマスター夫婦にこの町の様子などをいろいろと尋ねてみた。 マスターはかなりの起業家らしく、秋雄の求める以上の事を教えてくれた。 この、原発を抱えた海辺の町の、いろいろな事情にも通じていた。 マスターは秋雄の事情を深く尋ねることはなかったが、親切に教えてくれた。 秋雄はとりあえずこの町に住むことにした。
 
 まずは住むところを確保して、次は仕事を見つけなければならない。 幸いにマスターの知りあいで電気工事関係の人が必要だということだったので、とりあえずそこを頼んだ。 報酬はアルバイト並みだが、それもまたいいだろう。大学卒という履歴だけは履歴書から消した。そんな肩書きがあると使う方も使いにくいだろうし、こちらも窮屈だ。 

 アルバイトで生活をつないでいるうちに、器用な性格が実を結んで、建設会社との御縁があった。秋雄は電気工事や建設関係の仕事をしながら、時折「はな」で一息ついていた。ここでコーヒーを飲みながら海を見るのが、秋雄の楽しみだった。

 気がつくと、家の付き合いも家長の責任も何もなく、風来坊のように自由に生きている生活も10年以上経った。 秋雄は気が向いた御縁の中で日々を過ごしているうちに、あちこちで重宝されるようになった。 運転も得意な秋雄は運転手としても重宝がられ、労働者達の送り迎えをして県外にも出かけるなど忙しい日々を送るようになった。決して高給取りではないが、それは充実した日々だった。 気に入らない御縁は遠慮せずに切ったけれど、気の合う御縁は大切に楽しんだ。

 ある夕方、秋雄が近所のスーパーで買い物をしていたら、ふと見知った年配の女性を見かけた。 いつも行っていた喫茶「はな」のママさんだ。 声をかけようかどうかためらいつつも、そのまま黙ってレジに並んだ。 どうせ、向こうは自分の事など覚えてはいるまいという思いもあった。
 すると・・・・、女性は支払いの時にあたふたしはじめた。どうやらサイフを忘れたらしい。 秋雄は、その仕草が可愛くて思わず微笑んだ。次の瞬間、「僕が払いますよ」と声をかけていた。びっくりしている女性に、秋雄は声をかけた。
「喫茶『はな』のママさんでしょう。僕はよくあそこでコーヒーを飲むんですよ。昔、マスターにはお世話になりましたよ。」
「そう言えば、どこかでお見かけした顔だと思いましたわ。気がつかなくて・・・ごめんなさい。」
ママが「お金は今度お返ししたいから電話番号を教えてください」というので、
「返すほどの金額でもありませんが、いつもこちらにいるわけではないので、電話をくださったらこちらから伺いますよ」と返事をしておいたが、たいして期待してはいなかった。

 今思えば、それは秋雄にとって、何とはなしに人とつながるぬくもりを感じ始めたきっかけだった。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 10

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック